詩編45篇『だれよりも美しく』
表題の「ゆり」に合わせて、とは当時多くの人に親しまれていた曲名ことで、60,69,80篇にも出てきます。
「愛の歌」の愛は特別な愛で、神の清らかで気高い愛を表す言葉です。ソロモン王が生まれた時、「主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名づけた。」(Uサムエル記12:24下、25)とありますが、これと同じ言葉が使われています。
この45篇は王の結婚式に際して捧げられた賛歌と思われます。その王が誰であるか不明ですが、詩人はこの王こそ神がお立てなった我らの王として理想化して歌っています。従ってこの詩篇を文字通りに理解するより霊的に解釈した方がいいかと思います。 この詩篇を読んでこれはイエスの再臨の光景ではないかと思ったのです。
45:2「心に湧き出る美しい言葉 わたしの作る詩を、王の前で歌おう。 わたしの舌を速やかに物書く人の筆として。」
イエスの再臨の時私たちは心に湧き出るどんな『美しい言葉』で主を迎えるのでしょうか。イザヤはイエスの再臨を先取りして「その日には、人は言う。 見よ、この方こそわたしたちの神。 わたしたちは待ち望んでいた。 この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう。」(イザヤ25:9)と、イザヤはここで「この方こそ」、「この方が」、「この方こそ」と三度叫び喜びを表しています。私たちは待望していた再臨の主にお会いする時、このような言葉で心の込めてお迎えしたい。それが美しい言葉と言えるのではないでしょうか。イエスの再臨の時、このイザヤの言葉を深い感動を持って叫ぶことが出来たら何と幸いなことでしょう。声には言葉が伴い、言葉には心が伴う、その心が主を賛美するのでしょう。
イエスの再臨を思う時必ず少年時代、出征し、ソ連に抑留された父を6年半待った経験を思い出します。この6年半の間暑さ、寒さにつけ話題の中心は父でした。そして私たち子供が何か悪いことをすると「お前たちが悪い子になったら父ちゃんに会わす顔がない」と言って諭されました。戦中、戦後の大変な時代に私が長男で下に3人の子供がいました、母は叔父の家族と一緒に農作業していました。私も叔父の家の乳牛の餌の草を刈り、6年生の時は朝新聞配達をしました。困難な生活の中に私たちには一つの希望がありました。それは「父が帰るまで頑張ろう」でした。中1の夏休みも終わりになった頃、待ちに待った「父帰る」の電報が届きました。叔父と一緒に舞鶴港まで迎えに行きました。小学入学前の私しか知らない父は間違いなく私を見つけてくれるか心配でしたが、しかし父は多くの出迎えの中から私を目ざとく見つけて、『譲!』と呼んで近寄り握手してくれました。この父との再会の感動は60年たった今も色あせることはありません。(後でわかったことですが、『岸壁の母』で有名な女性がいた同じところで父と再会したのです)。
心躍る父との生活が始まりました。ところがしばらくして一番下の妹が農協の倉庫の軒下で泣いていたのを近くの方が連れて来てくれました。その理由は「父ちゃんがいつまでも家にいるから」でした。上の3人は父と生活を体験していましたが、彼女は父が出征して4ヶ月後に生まれたので全然父との生活をしていなかったのです。彼女にとってある日突然「父」と言われる男性が我が家にいつまでもいることに違和感をもっていたのです。
もう一つ忘れられないことは、父より1年先に出征し、父の一つ後の船で帰国した方のことです。同じ村ということで父に挨拶に来られました。その方は父と会話の途中に突然大粒の涙をボロボロ流しながら「俺は帰って来るべきでなかった、俺は帰って来るべきでなかった」と叫ばれたのです。実は彼の奥さんが別な男性と同棲していたのです。彼は歓迎されない人になっていたのです。
再臨信徒として困難な生活に直面してもしっかりした再臨の希望を持ち続けるならその困難を乗り越えることが出来るのです。イエスとはこの地上で一度もお会いしていませんが、多くの再臨信徒の中から間違いなく私を認め私の名を呼んで御国へ連れていてくださるのです、何と素晴らしいらしことでしょう。それにはこの地上生活でイエスとの深い交わりの生活を送ることです、私の末の妹のようであってはならないのです。そして何にもまして大切なことはイエスを悲しませるようなことをしてはならないということです。
45:3「あなたは人の子らのだれよりも美しく あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。」
かつてイエスがこの世で生活された時は「人の子らのだれよりも美しく」ありませんでした。むしろ「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、 好ましい容姿もない」(イザヤ53:2)ものでしたが、再臨の主はちがいます。神のラッパの鳴り響く中、多くの天使と共に栄光の姿で私たちを迎えに来られるのです。「人の子らのだれよりも美しい」方として来られるのです。
「美しい」(*)という言葉、英語では“Beatiful”が一般的ですが、日本語の「美しい」はどちらかといえば表面的な美しさに力点が置かれており、英語の”Beatiful”は外面と同時に内面的な美しさを表すのにも多く用いられているように思われます。マザーテレサは「死を待つ人々の家」に連れてこられた人に対して、先ず、その人の名前を尋ねます、その人は久しく自分の名を尋ねられることはありませんでした、一人の人間として迎えられたのです。そして体をきれいに洗ってもらい、次にあなたの宗教はなんですかと問われ、そして「あなたの宗教に従って葬儀をしてあげますよ」という言葉に、その人は安心して一言“Thank
you”と言います。彼女はそれを” It’s so beatiful”と表現しています。彼女は”Beatiful”を感動的と訳せる語として使っています。そういえば、マザーテレサは口癖のように”Beatiful”という言葉を用いたようです。それは「感動」 「素敵だね」 「それでいいのよ」とでも訳せる言葉として。
再臨の時のイエスは「人の子らのだれより美しい」、どんな美しさであろうか、想像しただけでも心がわくわくします。
スイスの原子物理学者バァイツゼッカーは、水素爆弾に関する研究する中で悩んでいました。彼は高名な神学者バルトに相談しました。そこでバルトは「すべてのクリスチャンが毎日口にするが誰一人信じていないことを信じるなら研究を続かなさい」と答えました。彼の言う「誰一人信じていないこと」とは「キリストの再臨」でした。当時の人間中心の神学から啓示の神学への転回を強く訴えていた彼の痛烈な教会批判の言葉でもありました。おそらく彼は多くのクリスチャンが日々祈る『主の祈り』の中で「……..御国を来たらせたまえ」と口にするが聖書に啓示されている通りのイエスの再臨を信じていないと言っているのでしょう。私はかつての使徒時代の信徒、あるいはSDA初期の信徒のようにイエスの再臨を待望しているのであろうか自問するものです。教会が発展しないのもここに原因があるのではないか。
45:4「勇士よ、腰に剣を帯びよ。 それはあなたの栄えと輝き。」
古代社会あっては王は敵と戦い勝利する勇者でなくてはなりませんでした。まさにイエスこそこの世の悪と戦い勝利する方です。
45:5「輝きを帯びて進め 真実と謙虚と正義を駆って。 右の手があなたに恐るべき力をもたらすように。」
真の勇者は戦いに強いだけでなく、真実と謙虚と正義をかね備えていなくてはなりません。イエスは悪に敢然と戦う勇者であると同時に真実と謙虚と正義をお持ちの方です。戦いの勇者に求められることは敵に勝つ強い力と同時に真実と謙虚、と正義です、これなくして真の勇者とは言えないのではないでしょうか。
スポーツの世界で勝者の中に謙虚さを見る時深い感動を覚える時があります。
「右の手」、イザヤ41:10「救いの右手」、口語訳では「勝利の右の手」とあるように、右手は勝利、救い(詩篇20:7、60:7参照)の象徴として使われています。私のすぐ側にイエスの救いの右手があり、勝利の右の手があることは感謝!
45:6「あなたの矢は鋭く、王の敵のただ中に飛び 諸国の民はあなたの足もとに倒れる。」
45:7「神よ、あなたの王座は世々限りなく あなたの王権の笏(*)は公平の笏。」
「神よ」、王を神とするのはイスラエルの信仰に矛盾するということで、口語訳では「神から賜った」と訳していますが原語からして無理のようです。この7節と8節の言葉をヘブル人の手紙1:8,9に引用されており、ここでは明らかに「神」をイエスキリストと考えているようですから、ダビデ王の末としてこの世に来られたイエスと考えていいのではないかと思います。
「笏」(*)は統治権、権威の象徴でありますが、原語は「杖」で口語訳では「杖」と訳しています。統治権、権威の象徴としては「杖」より「笏」の方が日本人にはわかりやすいからでしょうが、私は原語通り「杖」の方がいいと思います。
イスラエル人にとって「杖」は馴染み深いものでした。ダビデは「あなたの杖 それがわたしを力づける」(詩篇23:4)と歌い、歴史的には神はモーセが神の召しに躊躇している時、「あなたの手に持っているものは何か」(出エジプト記4:2)と問われ、「杖です」と答えます。神はモーセに「あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい」(同上4:14)と命じられます、彼はこの「神の杖」(同4:20)によって当時の世界最強の国エジプトからイスラエル人を救い出したのです。
また兄エサウの怒りを恐れて家を出てハランに向うヤコブにとって「一本の杖」(創世記32:11)が頼りでした。そして「ヤコブは死に臨んで、……..杖の先に寄りかかって神を礼拝」(ヘブル11:21)したのです。
私にとって「杖」は何でしょうか。神の言葉以外にないと思います。常にわたしを「力づけ」、困難を打ち破る力であり、人生の歩みを支えるものは御言葉であり、礼拝の中心は御言葉以外にないと思います。
45:8「神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに 神、あなたの神は油注がれた 喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。」
『油注がれた人』とはヘブル語で「メシヤ」です。ギリシャ語の「クリストス」も『油注がれた人』という意味です。それが「救世主」を意味するようになりました。従ってここでは救い主としてのイエスを表していると考えられます。
45:9「あなたの衣はすべて ミラル、アロエ、シナモンの香りを放ち 象牙の宮殿に響く弦の調べはあなたを祝う。」
「ミラル(沒薬)」、「アロエ(沈香)」、「シナモン(肉桂)」などは我々日本人には馴染みの薄いものですが、エジプトはじめ中近東においては高価な香油として貴婦人などが好んで用いたものです。
「象牙の宮殿」、壁に象牙をはめこんだ宮殿のことであり、最高の贅沢な建築物のことです。イエスが私たちに用意していてくださる住居がこのようなところであるとは! まさに「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(Tコリント2:9)ことが成就する時です、何と素晴らしいことでしょう。今は狭いプレハブの家に住んでいたとしても。
45:10「諸国の王女、あなたがめでる女たちの中から オフィルの金で身を飾った王妃が あなたの右に立っておられる。」
王なるキリストが花婿であり、その王妃となるオフィルの金(純度の高い最高の金)で着飾った花嫁が私たちとするなら、畏れおおいことです。しかしこれが神の御心であるとするなら、ただただ感謝あるのです。
「オフィルの金」は聖書には値踏みも出来ないほどの高価な宝物(ヨブ記28:16新改訳)、極めてまれなもの(イザヤ13:12)などと記しています。ここでは最高の宝物で着飾った王妃の姿を描写していますが、それは王妃自身で着飾ったのではなく、王の愛によって着飾っているとするなら、何と素晴らしいことでしょう。
45:11「娘よ、聞け。 耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。」
「あなたの民と父の家を忘れよ」、結婚は一人の男性と一人の女性が父母を離れて…….結ばれ二人は一体となる」(創世記2:24)ことです。九州では昔、結婚式をする日の朝。朝食が終わると、母親が娘の茶碗を割ってしまう風習があったそうです。それは二度と実家に帰って飯を食べようと思うな、という戒めです。もう帰るところはないのだ、嫁ぎ先で一生懸命努めよという娘への戒めでした。 今年の大河ドラマ「篤姫」は将軍に嫁いでから実家の鹿児島には一度も帰りませんでした。
それにしても結婚は男女の間で起こる最大の神秘であり、奇跡的な出来事と言えるでしょう。全くの赤の他人同士が育ての親より親密な関係にはいるのですから。
私たちがイエスに従がうということが結婚関係にたとえられるなら、「わたしよりも父や母……..息子や娘を愛する者ははわたしにふさわしくない」(マタイ10:37)の御言葉の意味がわかるような気がします。この聖句をしてキリスト教は『苛烈な宗教』(*)と言わしめた正宗白鳥、洗礼を受けた彼は、教会から離れていましたが最後には信仰告白して亡くなったという。彼はキリストの『苛烈な』言葉の向こうにキリストの素晴らしい愛に出会ったのではないでしょうか。
45:12「王はあなたの美しさを慕う。 王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。」
私たちは本来王なるイエスに慕われる美しさは持ち合わせていません。イエスにより義の衣(金糸で織られた晴れ着)を着せられる時、イエスに慕われる様な美しい者とされるのです。その時、私たちはただただ、主の前にひれ伏すのみです。
45:13「ティルスの娘よ、民の豪族は贈り物を携え あなたが顔を向けるのを待っている。」
45:14「王妃は栄光に輝き、進み入る。 晴れ着は金糸の織り」
45:15「色糸の縫い取り。 彼女は王のもとに導かれて行く おとめらを伴い、多くの侍女を従えて。」
45:16「彼女らは喜び躍りながら導かれて行き 王の宮殿に進み入る。」
45:17「あなたには父祖を継ぐ子らが生まれ あなたは彼らを立ててこの地の君とする。」
45:18「わたしはあなたの名を代々語り伝えよう。諸国の民は世世限りなく あなたに感謝をささげるであろう。」
王と王妃の結婚式のクライマックスが詩的な美しい言葉で描かれています。王妃が異邦人の「ティルスの娘」であることに心惹かれます。私たちは救いから遠く離れていた異邦人でありましたがイエスの恵みにより救われ、王妃とされる、しかも「栄光に輝き」、この世で最も高価で美しい「金糸の織り」の晴れ着、それは「色糸の縫い取り」されたものを着て王のもとへ全天の住民が歌う賛美の歌声、彼らが「喜び躍る」中に進み行くのです。 私たちは救われて天国の門をくぐる時このような全天の大歓迎を受けるとしたら、何と素晴らしいことでしょう。
イエスの再臨は全宇宙の一大イベントであります。それは今までに例がなく、これからもありえない、空前絶後の素晴らしい出来事であります。それはまさに「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛するものたちに準備された」(Tコリント2:9)の約束の御言葉がこの私に、あなたの身に起こるのです。
かつて、エマオの途上で復活の主にお会いした二人の弟子が「わたしたちの心が燃えたではないか」(ルカ24:22)と告白したように、イエスの再臨のメッセージに心燃やすものでありたいと思う。
(*)「美しい」という言葉で、天才的な物理学者アインシュタインが「我々の経験しうる最も美しいものは(最も感動的なものは)神秘的なものである。……そのことを知らない人、不思議な思いや驚嘆の念にとらわれないような人は、いわば死んだも同然であり、その眼はものを見る力を失っている、と言わねばならない」(「私の世界観」)と。私たちクリスチャンにとって神秘的なもの、不思議な思いや、驚嘆の念にとらわれるものはなんでしょうか。それはキリストの受肉、十字架による贖いであり、そしてキリストの再臨ではないでしょうか。
(*)「笏」、「束帯を着る時に持つ細長い板。初めは式次第などを書き裏にはって備忘録用としたが、後に儀礼用となった。」(大辞林)。現在は神主が儀式に用いる。 ここでは統治権、権威の象徴と考えられます。
(*)「苛烈な宗教」、昭和初期の有名な牧師であり神学者高倉徳太郎、彼は東大法学部の学生であったが、植村正久の説教により大学をやめて牧師になろうとした。それを知った父は大層立腹し「親を殺す気か」と電報をよこした。それに対して高倉徳太郎は「親は子のために死ね」と打電した。