表題については42篇参照。
この詩編の歴史的背景はっきりしませんが、この詩篇に記されているような国家存亡の危機として考えられるのはヒゼキヤ王の時代のアッシリアの王セナケリブよる侵略が考えられます。U列王記18:3には「ヒゼキヤ王の14年に、アッシリアの王セナケリブが攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した」とあります。またセナケリブの碑文にはユダの堅固な都市46を占領し、捕虜20万人、銀800タラントを獲たと記しています。まさに国家存亡の状況の中での詩であります。
44:2「神よ、我らはこの耳で聞いています 先祖が我らに語り伝えたことを 先祖の時代、いにしえの日にあなたが成し遂げられた御業を。」
2節から4節でイスラエルの民がカナンの地に定住できるようになったのは神の恵みの力によると高くらかに歌いあげています。
「先祖が我らに語り伝えたこと」とは出エジプトからカナンの地に定住するまでの物語のことで、イスラエルではこの物語を親から子に、子から孫はへと語り伝えられてきました。「語り」とは繰り返し口頭と文書で伝えることです。
近頃特に思うことは、かつてのイスラエルの民のように、イエスキリストのよる救いの物語を自分の子供たちに正しく「語り伝え」てきたであろうか、そして子供たちが私たちは確かに「この耳で聞いています」と自信をもって言ってくれるであろうかと深く反省するところです。
44:3「われらの先祖を植えつけるために 御手をもって国々の領土を取り上げ その枝が伸びるために 国々の民を災いに落としたのはあなたでした。」
イスラエルの民がカナンの地に来たのは一時的に住むためではなく、カナンの地にしっかり根を下ろし人々の祝福の基となるためでした。しかし先住民にとっては「領土を取り上げ」られ、「災い」をもたらされたのです。イスラエルの民はそのことを忘れてはならず、幸いをもたらす民として生きることが求められているのです。
引退して9年半、袖ヶ浦を終の棲家、余生を静かに過ごす地としていますが、この袖ヶ浦の地に神によって植えられたのであり、しっかり根を張り、枝をはって近くの人々の祝福の基となることを神は求めておられるように思えてなりません。
44:4「先祖が自分の剣によって領土を取ったのでも 自分の腕の力によって勝利をえたのでもなく あなたの右の御手、あなたの御腕 あなたの御顔の光によるものでした。これがあなたのお望みでした。」
カナンの地で最初に占領したのは難攻不落といわれていたエリコの町でした。それは武力によるものではありませんでした『あなたの右の御手、あなたの御腕、あなたの御顔の光』によるものでした。『御顔の光』は神による救い、神の大いなる恵みを表します。詩編42:6,12,43:5の「御顔こそ、わたしの救い」の御言葉を思います。
44:5「神よ、あなたこそわたしの王。 ヤコブが勝利を得るように定めてください。」
詩人はイスラエルとは言わずに「ヤコブ」と言っていることに心惹かれます。おそらく詩人はヤコブのベテルでの天からの梯子(創世記28:10−19)や、ペヌエルの格闘(創世記32:23−31)の経験を思ってのことでしょう。イスラエルになる前の罪深いヤコブを導き守られたようにわたしたちをこの苦難から救ってくださいと祈っています。現在の苦境の中にあって歴史の主に信頼して祈っています。
「神が私たちを導いてこられた道を忘れない限り、将来に対して何の恐れもありません」(牧師への証し31p)のホワイト夫人の言葉を思います。
44:6「あなたに頼って敵を攻め 我らに立ち向かう者を 御名に頼って踏みにじらせてください。」
「御名に頼って」、ダビデはペリシテ人の勇者ゴリアトと戦った時、「お前は剣や槍や投げやりでわたしに向ってくるが、わたしは……万軍の主の名によってお前に立ち向かう」(Tサムエル17:45)と言ったことを思っていたことでしょう。
さらに私どもはペトロが足の不自由な男をイエスの御名によって癒したことを思います(使徒3:6)。主の御名には力があるのです。
私たちは日常的に祈りの終わりに「主の御名によって祈ります」と唱えますが、このような力を信じて祈っているか深く反省するものです。
44:7「わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしません。」
44:8「我らを敵に勝たせ 我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。」
44:9「我らは絶えることなく神を賛美し とこしえに、御名に感謝をささげます。」
詩人は戦いに際して武力に頼るのではなく、国家存亡の危機にあって『あなたです』と断言しています。
しかし、現実は10−17、20節にあるように厳しいものです。このところを読むと第二次世界大戦のことを思い出します。
44:10「しかし、あなたは我らを見放されました。 我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず」
軍国少年の私は神風が吹いて日本は勝つと信じていましたが神風は吹きませんでした。
44:11「我らが敵から敗走するままになさったので 我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。」
「敗走」、負け戦を表す言葉で、旧日本軍では「敗走、退却」という言葉は用いず「転進」と言った。
「略奪をほしいままに」、外地で終戦を迎えた人々は恐ろしい略奪を経験しました。
44:12「あなたは我らを食い尽くされる羊として 国々の中に散らされました。」
44:13「御自分の民を、僅かの値で売り渡し その価を高くしようともなさいませんでした。」
「民を、僅かな値で売り渡し」、中国の残留孤児を思います。
44:14「我らを隣の国々の嘲りの的とし 周囲の民が嘲笑い、そしるにまかせ」
44:15「我らを国々の嘲りの歌とし 多くの民が頭を振って侮るにまかせられました。」
44:16「辱めは絶えることなくわたしの前にあり わたしの顔は恥に覆われています。」
44:17「嘲る声、ののしる声がします。報復しようとする敵がいます。」
外地で終戦を迎えた多くの人々はこの様な体験をされました。
このような厳しい現実に直面していながらも尚も、詩人は主なる神に信頼を置いています。
44:18「これらのことがすべてふりかかっても なお、我らは決してあなたを忘れることはなく あなたとの契約をむなしいものとせず」
44:19「我らの心はあなたを裏切らず あなたの道をそれて歩もうとはしませんでした。」
詩人はこのように素晴らしい信仰告白をしています。
44:20「あなたはそれでも我らを打ちのめし 山犬の住みかに捨て 死の陰で覆ってしまわれました。」
終戦直後、名古屋の町は焼け野原でした。大きなビルが一つ、松坂屋の建物でしたが、外形はとどめていましたが、中は丸焼けでした。人影らしいものに近づいて見ると石造の二宮金次郎でした。背負っていた薪は燃えていませんでしたが。ここは人の住むところではないと強く思いました。
44:21「このように我らが、我らの神の御名を忘れ去り 異教の神に向って 手を広げるようなことがあれば」
44:22「神はなお、それを探り出されます。 心に隠していることを神は必ず知られます。」
44:23「我らはあなたゆえに、絶えることなく 殺される者となり 屠るための羊と見なされています。」
詩人は現に苦しい状況にあるのは「あなた」を信じる故の苦しみであると告白しています。パウロも自分の今の苦しみはイエスを信じる故であるとしてこの詩編の言葉を引用して弁明しています(ローマ8:36)。パウロの聖書の読みの深さに驚きます。 さらにフィリピの信徒には「……あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1:29)と勧めているのです。
44:24「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく 目覚めてください。」
44:25「なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らは貧しく、虐げられていることを 忘れてしまわれたのですか。」
負いきれない困難、苦しみの中にある時、人は神がその問題に積極的に関り「奮い立って」問題解決に当たってくださることを心から願うものです。しかし神は「眠って」いるかのように感じられることがあります。それは「御自分を隠される神(イザヤ45:15)であり、「御顔を隠される」神、「口を開かない」(イザヤ53:7)沈黙の神であられるからです。それは私たちの苦しみに無関心であるのではなく、私たちの苦しみを共に負ってださる神なのです。ゴルゴタの丘に向って十字架を背負い黙々と歩まれるイエスを思います。
「なぜ、御顔を隠しておられるのですか」、詩人はなぜ「御顔にこだわっているのでしょうか。それは「御顔こそ、わたしの救い」(詩編42:6,12,43:5)と信じていたからでしょう。
44:26「我らの魂は塵に伏し 腹は地に着いたままです。」
この御言葉で「わたしの魂は塵に着いています。御言葉によって、命を得させてください。」(詩編119:25)を思います。
44:27「立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。」
詩人は懸命に神に「立ち上がって、我らを助けてください。」と祈り求めています。そして「我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。」と祈っていることに心惹かれます。実に厳しい現実の中で、救いは「贖い」によるものであり、神の「慈しみ」による以外にないという詩人の信仰の深さに驚き羨望の思いに浸るものです。