ヘブル語の聖書では詩編は5巻に分かれており,第1巻は1−41編までです。従ってこの41編は第1巻の終わりで「アーメン、アーメン」の頌栄で終わっています。 この詩はダビデが重い病気になり、癒された経験を記したものと思われます。
41:2「いかに幸いなことでしょう 弱いものに思いやりのある人は。 災いのふりかかるとき 主はその人を逃れさせてくださいます。」
「いかに幸いなことでしょう」。詩編1編の1節に出来る同じ言葉です。またイエスが山上の説教で「幸いなるかな心の貧しい者」(文語訳)と同じ言葉です。
ダビデは感動をもって「ああ、何と幸いなことか」と語りかけています。どのような人が幸いな人なのでしょうか。それは「弱いものを思いやりのある人です」。
「弱いもの」とは、肉体的、精神的、経済的に困っている状態の人を指す言葉です。イエスは「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」(ヘブル5:2)人でした。そしてイエスの模範に従って私たちも困っている人には同じ思いになって「思いやりなさい」(ヘブル13:3)と勧められています。
「思いやり」とは人に対して単に同情心を持つことではなく、相手の状況を正しく把握して、最も良い方法を考えて配慮してあげることです。なぜなら「小さな親切、大きなお世話」になってはならないからです。
イエスは天国に入ることのできる人は飢えた人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませ、旅人に宿を貸し,裸の人に着せ、病人を見舞いなどの善行を「いつ………..したでしょうか」と言える人であるといわれました。(マタイ25:31−40参照)。
ねむの木学園園長の宮城まり子さんが「福祉」にカナをふるとしたら、どの言葉が良いのか色々迷ったそうです。「思いやり」とも考えたそうですか、どうもその言葉には弱者と強者のニュアンスがあるようでいまひとつそぐわないと考えた結果「あたりまえ」という言葉にたどりついたそうです。
この「あたりまえ」のことを「あたりまえ」のこととして行うことは簡単のようで実は大変難しい。その人にとってどのような援助が「あたりまえ」のことなのかを知ることは先ず難しい。例え知ったとしてもこちらの方でそれに答えられる力があるかどうかが問われます。」と語っておられます。
「いつ………..したでしょうか」と言った人はこれ等の困難を乗り越えて「あたりまえ」のことを「あたりまえ」にした人の言葉と言えるでしょう。
それにしても「福祉」を「思いやり」から「あたりまえ」と深めた宮城まり子さんは素晴らしいと思います。
41:3「主よその人を守って命を得させ この地で幸せにしてください。 貪欲な敵に引き渡さないでください。」
41:4「主よ、その人が病の床にあるとき、支え 力を失って伏すとき、立ち直らせてください。」
わたしは病人を見舞う時に良く用いる御言葉です。 私たちは病気になった時、「神様どうかこの病を癒してください」と祈ります。その病が重ければ重いほど真剣に心からの叫びとして祈ります。このような祈りを神は決して軽視したりなさらず、重く受けてくださる方と信じます。 しかし、ダビデはその時、相当重い病におかされていたようですがその病を癒してくださいとは祈らず、病に耐える力を与えてくださいと祈っているのです。
ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子先生が私たちは請求書の信仰ではなく、領収書の信仰を持つべきだと語っておられます。
病気を癒してください。お金に困っています、助けてください。大学に合格させてください。といった祈りは決して間違った祈りではありませんが、どちらかといえば請求書の信仰と言えるのでしょう。
では領収書の信仰とはどのようなものでしょうか。マルコ11:24でイエスが「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」と、これは明らかに領収書の信仰です。
またマタイ7:9−11で「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」との御言葉を心から信じて祈ることではないでしょうか。
病気は癒されてはいないけれども、イエスが一緒に苦しんでくださる。一人ではない、その恵みをしっかりと受け止め、病に耐える力を与えてくださいと祈ること、それはたとえ病が癒されなくても、神は私にもっと素晴らしいものを与えてくださると信じて祈ることではないでしょうか。
しばらく前、25年間も寝たきりの闘病生活をされたご婦人の葬儀の司式をしました。彼女の心の支えとなっていた御言葉はフィリピ1:9「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」でした。何と素晴らしい信仰ではないかと、深い感動を覚えました。
筋ジストロフィーのため、23歳7ヶ月で若い生涯を終えた石川正一さんが17歳の時、「筋ジスという病気は、ぼくにとって本当に重荷だけどそれは神様が何かの意味があって、ぼくに与えてくださったのだから、恵みとも言えるんだ。」(『*めぐり逢うべき誰かのために』)と。
パウロには身に一つの棘があり彼を苦しめていました。彼はこの棘を取り去って欲しいと三度祈りましたが神の答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。」(Uコリント12:9)でした。
多田富雄(東京大学名誉教授)先生が彼のエッセイの中で「病気などと無縁なだと思っていた私が、脳梗塞で右半身不随になってから、まるで病気のデパートのように色々な病気の巣になってしまった。それも回復不可能なものばかり。……食事は私にとって最も苦痛な、危険を伴う儀式である。…….ご飯粒一粒でも気管に入ると肺炎になる危険がある。
受苦ということは魂を成長させるが、気を許すと人格まで破壊される。……病という抵抗のお陰で、何かを達成したときの喜びは例えようもないものである。初めて一歩歩けたときは、涙が止まらなかったし、初めて左手でワープロを一字一字打って、エッセイを一編書き上げたときも喜びで体が震えた。……..健康で無意識に暮らしていた頃と比べて、今のほうがもっと生きているという実感をもっていることに気づく」と。
キルケゴールは「不安(病)は、信仰の助けをかりて、人間を、摂理の中に安息を見出すように教育する。……不安(病)によって教育される者は、それゆえ贖罪に至って始めて休息に達するであろう。」(不安の概念240,241p)と。それは「主はすぐ近くにおられる」(フィリピ5:4下)という霊的な体験へと導かれ、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。……そうすれば、あなた方は安らぎを得る。」(マタイ11:28,29)との約束を自分のものにすることです。
41:5「わたしは申します。 あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」
この世に罪が入り込むことにより人は病むようになりました。罪の解決なくして真の癒しはないのです。そして罪は第一義的には人にではなく神に対してのことであります。ダビデは「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました」(詩編51:6)と。ダビデは肉体的な病の癒しを求める前に自分の心の奥深いところにある罪に向き合っています。従ってこの聖句は「あなたに罪を犯したわたしの魂を癒してください。」とも訳せる言葉です。
41:6「敵はわたしを苦しめようとして言います。 「早く死んでその名も消えうせるがよい。」
6節から10までは病むダビデを見舞う人々の心無い言葉や行為が記されています。 「….名も消え失せるがよい」とは家系全体が絶えることで、ダビデのみならず、一族すべてが抹殺されることを意味する強い言葉です。
41:7「見舞いに来れば、空しいことを言いますが 心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。」
見舞い客の言葉はダビデにとって空しい言葉であり、しかも悪意に満ちたものでした。
41:8「わたしを憎む者は皆、集まってささやき わたしに災いを謀っています。」
「……..集まってささやき」とはダビデの死を願って呪文を唱えること。
41:9『呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい。』
彼らは呪文の力を信じて、ダビデの命が絶たれることを信じているのです。
41:10「わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べた者が 威張ってわたしを足げにします。」
イエスは最後の晩餐の席上でこの聖句を用いてユダの裏切りを予告しておられます〔ヨハネ13:18〕。“神様、私が21世紀のユダになりませんように、どうかお助けください、アーメン”と切に祈るものです。
それにしても、イエスの地上での生活はみ言葉の内に生きておられた事を改めて思います。
41:11「主よ、どうかわたしを憐れみ 再びわたしを起き上がらせてください。 そうしてくだされば 彼らを見返すことがでします。」
思想的には4節の続きと考えられます。先ずダビデは神の第一の属性「憐れみ」(出エジプト34:6)にすがって祈っています。そしてダビデは病を癒してくださいとは祈らず「….再びわたしを起き上がらせてください」と。それはまたは9節の「….二度と起き上がれまい」に対する言葉でもあります。「彼らを見返すことができます」とは彼らを見下すことではなく、6−10節までに彼らが言っていた事がそのようにならず、また彼らが行ったことが無に帰して、神の栄光が現れることを願っての言葉です。
41:12「そしてわたしは知るでしょう わたしはあなたの御旨にかなうのだと 敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。」ダビデは悟ります、御旨に従って生きることが敵に勝利することを。
41:13「どうか、無垢なわたしを支え とこしえに、御前に立たせてください。」
ダビデの願いは罪赦されたものとして、とこしえに神の御前に立つことですと告白しています。
41:14「主をたたえよ、イスラエルの神を 世々とこしえに。 アーメン、アーメン。」
クリスチャンは日々主をたたえる生活です。しかも「世々とこしえ」にです。
「アーメン、アーメン」。単なる祈りの終わりの合図ではなく、礼拝における神の祝福、恵み、罪の赦しの宣言に対する礼拝者の感謝の応答です。それはまた神の恵みの内に真剣に生きていく決意の表明でもあるのです。「アーメン、アーメン」との繰り返しは強調を表しています。
先日結婚式の司式を依頼されました、式が終わって退場しようとした時、中年の女性が満面笑みを浮べながら近づいてこられ「今日のお説教とお祈り素晴らしかったです、私はクリスチャンで新郎の上司です。今日から新郎がクリスチャンなること毎日お祈ります。」と大変素晴らしいお言葉をいただきました。ところが「あなたは本当の牧師さんですか」と言われるのです。世の中、偽装、偽物で溢れている昨今、牧師まで偽物が現れる世の中になったのかと思いました。このことを家内に話すと「偽者」が「本物」より上手にやるからではないかと。
偽者のクリスチャン、偽者牧師に負けないクリスチャン、牧師でありたいと思うのです。それは困っている人に対しては思いやりが「あたりまえ」のこととして行動できる人であり、苦しみも恵みとして受け止め生きていく人ではないでしょうか。
*石川正一 昭和30年11月13日東京生まれ、幼稚園の頃、筋ジストロフィーの宣告を受け、10歳の夏に歩行不能となる。14歳の初夏、父親から「20歳までしか生きられない」事実を知らされ、残された青春の日々に、自らを完全燃焼させて生き抜くことを決意する。その後、身体の衰えに比し、精神の成長いちじるしく、奇跡的にも“20歳の壁”を越すが、昭和54年6月、23歳7ヶ月で、ついに神に召される。