「今日、わたしはお前を生んだ」(詩編第二編講解説教)

 

 詩編第一篇ではみ言を重んじ、その中で生きる者はいかに幸いなことかと述べ、第二編ではそのみ言とは何か。それは王なるメシヤである。ユダヤ人はこれを「王なるメシヤの歌」、「王即位の歌」と呼び、ダビデそしてユダ王朝の王即位式には必ず用いられた歌として知られています。クリスチャンはナザレのイエスに成就したと信じています。

 

 1)1−3「なにゆえ、.......]という疑問詞で語りかけています。これは「何故」、「どうして」という理由を問うているのではなく、「あら、まあー」といった驚きあきれた時に使う「マラー」(ヘブル語)です。創造主である神、全能者である主に逆らうことは何と愚かなことか。その愚かさにあきれるだけでなく、神に逆らうことは大きな罪であり、その罪に対する怒りを含んだ言葉です。二節のはじめにも「マラー」を使っていることから詩編記者はこの「マラー」を強調していることがわかります。

 この1-3の言葉は使徒言行録4:25,26に引用されています。

 ペテロとヨハネがエルサレムの神殿に祈るためにやってきました。「美しの門」のところでひとりの物乞いの足を癒します。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレのイエス. キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」といって癒します。癒された男は「歩き回ったり躍ったりして神を賛美し」ます。この出来事に驚き怪しむ群集に向かってペテロとヨハネはこの男はあなた方が十字架につけたナザレのイエスによって癒されたのであると詩編118:22を引用して語り、さらに人々の罪を示し、悔い改めを促します。祭司やサドカイ派の人々はこれをよしとせず、彼らを捕らえ一日留置所に入れます。しかし民衆の多くは彼らの説教を受け入れ、その数は男だけでも五千人いました。

 翌日、釈放された二人は仲間のところに帰り、このたびの出来事は詩編2:1,2の成就であると語ります。(使徒4:25,26)

 

 ここで考えなくてはならないことは、初代教会の人々はみ言に親しみ、み言の中に生きていたことです。例えば使徒言行録2:16からのペテロの説教ではヨエル書からの引用から始まり、詩編16:8−11、132:11、そして110:1と立て板に水を流すがごとく次から次へと自由に引用しています。またルカ1:46−55のマリヤの賛

歌(マグニフィカト)はハンナの祈り(サムエル上2:1−10)に酷似しており、さらに詩編35:9、31:7,8、111:9などからの引用と思われます。若いマリヤがみ言に親しんでいた証拠と考えていいでしょう。我々終末時代に生きるものとして、彼らのように、いや彼ら以上にみ言を学び、み言の中に生きるものでありたいと思う。

 

 2:3−6「天を王座とされる方は笑い...........] 地上の王は所詮地上の王であって天を王座とするものではありません。地上の王がどんなに大きな力を用いて我々を迫害しようとも我々は天を王座とする方のみ手のうちにあるのです。これが初代教会の信仰体験でありました。天を王座とする方はただ天にとどまる方ではなく「聖なる山シオンでわたしは自ら、王を即位させた」と宣言される方です。即ち、モーセが羊を飼っていた荒れ野を聖なる地とされたように(出エジプト3:5)シオンを聖なる山とされ、そこに神自ら王として即位されるというのです。神は我々にとって遠い存在ではなく身近な助け主であります。

 

 2:7..............[お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」このみ言はイエスのバプテスマの時成就しました(マタイ3:17)。それは我々がイエスを信じてバプテスマを受ける時にもいえることです。「生まれる」とはヘブル語で母親の胎内から生まれること、また新しい地位に着く、あるいは新しい関係に入ることを意味します。「今日」という言葉が強調されています。日々にそして「今日」というこの日に新たに新鮮な思いをもってこの神の言葉を聴き、新しく生まれることが必要であります。イエスを信じて神の子となること、それは過去のことではなく今日の出来事であり賛美歌526の「主を愛するは今日はじめのここちして」とあるように。

 またこのみ言をパウロはイエスの復活の時に成就したと述べています。即ち、「......神はイエスを復活させて、わたしたちの子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを生んだ』と書いてあるとおりです。」(使徒13:33)と述べ、さらにイザヤ55:3、詩篇16:10を用いてイエスの復活の重要性を述べています。詩編2:7のみ言をイエスの復活の預言であると理解するパウロの聖書の読みの深さに驚きます。

 パウロはイエスの復活の事実の重要性を数多く述べています。「最も大切なこととして........聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」(コリント一15:3,4)、「......わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」(テモテニ2:8)とここで彼はわたしの福音はイエスの復活であるといっています。したがって、「....キリストが復活しなかったなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰は無駄です。」(コリント一15:14)と、さらにキリストの復活がないなら「わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」(15:19)

 エマオの途上で復活の主にお会いした二人の弟子は「........わたしたちの心は燃えたではないか」(ルカ24:32)と告白しています。われわれSDA信徒はイエスの再臨は強調します、それは当然のことですが、教会としては復活祭はしませんが個人としては復活の主に出会い常に「心は燃え」たいと思います。

 

 宗教改革者マルチン ルターが宗教改革運動中、大変な困難に会い、すっかり落ち込み食事も喉を通らないほどになったことがありました。その時、妻のカタリーナが喪服を着て現れました、驚いたルターは「誰が亡くなったのか」と聞きます。彼女は悲しげに「今、イエス様が亡くなりました。」と、ルターは「何を言うか、イエスは復活され天におられる。」と反論します。それで彼女は「イエス様が復活して、生きておられるなら、どうして食事もできないほど落ち込んでいるのですが」と、この言葉にルターは信仰の目が開かれ、宗教改革を進めることができたといわれています。